— (今日のダーリン、糸井重里、2012.5.7)
手塚治虫『人間関係が希薄な人は漫画は描けない。漫画とは読者との会話だからだ』
宮崎駿『ロクに人生経験も無いオタクを雇うつもりはない。火を表現するには火に触れないと駄目だ』
庵野秀明『アニメ・漫画に依存するのは止めて外に出て欲しい。あれはただの絵だ』
富野由悠季『オタクは日常会話が出来ない。アニメ作るならアニメ見るな』
藤子・F・不二雄『よく「漫画家になりたいなら漫画以外の遊びや恋愛に興じろ」だとか
「人並の人生経験に乏しい人は物書きには向いていない」だとか言われますが、
私の持っている漫画観は全く逆です。
人はゼロからストーリーを作ろうとする時に「思い出の冷蔵庫」を開けてしまう。
自分が人生で経験して、「冷蔵保存」しているものを漫画として消化しようとするのです。
それを由(よし)とする人もいますが、私はそれを創造行為の終着駅だと考えています。
家の冷蔵庫を開けてご覧なさい。ロブスターがありますか?多種多様なハーブ類がありますか?
近所のスーパーで買ってきた肉、野菜、チーズ、牛乳・・・
どの家の冷蔵庫も然して変わりません。
多くの『人並に人生を送った漫画家達』は
「でも、折角あるんだし勿体無い・・・」とそれらの食材で賄おうします。
思い出を引っ張り出して出来上がった料理は大抵がありふれた学校生活を舞台にした料理です。
しかし、退屈で鬱積した人生を送ってきた漫画家は違う。
人生経験自体が希薄で記憶を掘り出してもネタが無い。思い出の冷蔵庫に何も入ってない。
必然的に他所から食材を仕入れてくる羽目になる。
漫画制作でいうなら「資料収集/取材」ですね。
全てはそこから始まる。
その気になればロブスターどころじゃなく、世界各国を回って食材を仕入れる事も出来る。
つまり、漫画を体験ではなく緻密な取材に基づいて描こうとする。
ここから可能性は無限に広がるのです。私はそういう人が描いた漫画を支持したい。
卒なくこなす「人間優等生」よりも、殻に閉じこもってる落ちこぼれの漫画を読みたい。』
— びっぱーなおれ
・ぼく自身が、なにかの都合で職業を記すときには、
「会社員」だとか「会社役員」だとかを選んでいます。
おれの職業なんだっけと、
考えるのがめんどくさいからです。
社会という森で、会社員という毛皮は「保護色」です。
しかし、それにしても、
誰も彼も、なにもかも、みんな会社員になってしまった。
長い間フリーランサーで仕事をしていたぼくも、
チームプレイをやろうとして会社にしてしまいました。
そういうぼくが言うのも、口幅ったいのですが、
生きる術が会社員以外ないかのような社会は、
やっぱり、ずいぶんおかしいと思うんです。
「職業につく」ということと、
「企業に就職する」こととはイコールじゃないはずです。
「会社員」だから収入が安定しているとか、
「会社員」だから信用されるとか、
「会社員」だから、生活設計ができるとか、
いろいろよさそうなことを言われてきましたけれど、
そうともかぎらないということも、わかってきました。
日本中、「会社員」ばかりというのが、
そもそも、ずいぶん不思議なことだという気がします。
「会社員」じゃない生き方をすると、
「会社員」に比べて、どんだけ不利なのでしょうね。
なんか、これはいまのぼくの直感なんですが、
「会社員」じゃない人たちが生みだすものが、
これからの豊かさをつくっていくんじゃないかな。
職人、主婦、無職、商店主、手伝い、老人‥‥
こういう人たちにできること、
こういう人たちが必要とされることって、
ほんとは、もっとたくさんあると思うんですよね
(選挙権だって、会社に関係なくありますもんね)。
仕事のしかたを、もっと考えられないものかなぁ。
ぼくには、まだこれ以上はわからないのですが、
変わっていくとしたら、東北の被災地あたりから、と、
そういう気がしてならないんです。
いや、そうしたいものだよなぁ、がんばろっと。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
2012年の3月11日、あなたはどこでどうしているでしょう?
— 今日のダーリン、24.2.11
昨日、ほんとに「ふと‥‥」思いついて、
<じぶんで選べないことは、その人のせいじゃないです>
と書き記しました。
これは、吉本隆明さんがなにかのときに、
呼吸でもするように言ったことばです。
生まれた時代や生まれた国、どちらもじぶんで選べない。
肌の色、からだの大きさやかたち、
そして兄弟やら両親も選べません。
親しい人どうしが、たがいに、
からかいあったりすることはあるかもしれませんが、
じぶんでどうしようもないことで、
責められたり不利益を受けたりするのは、
あってはいけないことだと思います。
・もうちょっとだけ広げると、
いかにも「じぶんで選べる」ように見えて、
じつは「じぶんで選べない」こともたくさんあります。
ものしりであることとか、教養があること、
たくさん本を読んでいることなどを、自慢する人や、
ものを知らない人を簡単にバカにしようとする人が、
なんとなく気持ちわるいのは、
教養を得るための時間や環境があったことを、
勘定に入れてないからだと思います。
ほんとに教養のあるかっこいい人は、
ものを知らない人をバカにしたりしません。
いや、あらゆる人から学ぼうとします。
・ま、こういうふうなことを言うと、
どこかに「じぶんはどうなんだ」ということになって、
さんざんボロが出るのは目に見えているのですが、
ものを知らないとか、ものを言わないとか、
そういう人が否定されるような考え方は、
ほんとうのよさを持てないんだよなぁ、と、
このごろ、つくづく思うのです。
中世に生きていた親鸞さんが、
「南無阿弥陀仏と言うだけで、誰でも」と言ったのは、
修業を積んだとか、熱心に勉強したとかじゃない人を、
まるごとみんな肯定したという意味で、
かっこいいなぁと思えるんですよねー。
— 糸井重里、今日のダーリン、23.1.19
— しょこたんブログ、2012.1.7
「なんでもない日、おめでとう!」は、
もともとディズニーアニメの
『不思議の国のアリス』のなかのことばです。
小さいころから、ぼくの頭のなかにずっとあったんです。
もともと、おとなっぽい逆説として
歌われていたものなんだと思うのですが、
ぼくは、なんだか、素直にそのまま気に入っていました。
なんでもない日のほうが、なんでもある日よりも、
何倍も何十倍も多いと思うわけです。
んで、その多いほうが「うれしい」なら、
ほとんど一生「うれしい」ではありませんか。
「大うれしい」が、たまにあるよりも、
毎日のように「ふつううれしい」やら
「小うれしい」があるほうが、ごきげんでいられる。
‥‥なんてことを考えていたわけでもないのですが、
ぼくはどうも「なんでもない」が好きみたいです。
あの震災があってから、
「なんでもない日」をやってくのって、
ちっとも容易いことじゃないと知って(いまさらかい?)
その気持ちはますます強くなりました。
そして、よくかんがえたら「日」ばかりでなく、
たいていの「なんでもない」が好きなのではないか。
そういう気がしてきています。
「なんでもない人」「なんでもない献立」
「なんでもない土地」「なんでもない動物」
どれも、みんなとてもいいなぁ。
いろんなものごとを円グラフで表わしたら、
ほとんどは「なんでもない」なんだよなぁ。
「おれは信長だ」とか「おれ家康」とか、
「ぼくはジョブズ」なんて「なんでもある人」のことを、
さんざん語ったりしてても、実際に動いたり戦ったり、
買ったり使ったりするのは「なんでもない人」たち。
「なんでもない」のなかには「なんでもある」の成分が、
ちゃんと組み込まれているんだと、ぼくは思う。
「なんでもないラーメン」のなかには、
「すっごくうまい」が、ちゃんと込められていたりする。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
なんでもない赤ん坊が、育っておとなになって老いて死ぬ
— 今日のダーリン、2012.1.11