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“・昨日は連休最後の日で、映画を観に行きました。
 「ル・アーブルの靴みがき」、アキ・カウリスマキ監督。
 このフィンランドの映画監督のこと、
 なんだか、ずっと好きでして、
 『マッチ工場の少女』以来、多くの作品を観ています。
 色彩感覚、音楽、演出、おはなし、みんな好きですが、
 状況設定と、配役が、特に好きなのかもしれない。
 
 あと、ひとつ、この監督の方法が、
 「ほぼ日」の参考になっていることがあるんですよ。
 アキ・カウリスマキさんは映画館を持っている。
 そういう話を聞いたんです。
 だから、上映館の心配をしなくていいんだ、と。
 せっかく撮影ができて編集が終っていても、
 上映されないまま、長い時間眠らされている映画は、
 少なくありません。
 でも、自前の映画館を一館でも持っていれば、
 上映は保証されているわけです。
 それを知ったときには、膝を叩きましたよ。
 インターネットというものを、まだ知る前でしたが。

・それはそうと、この監督の映画は、
 登場人物のひとりひとりが、不思議におもしろいんです。
 ほとんど全員が無表情で、だいたい無口です。
 すごいことを考えている人も、やらかした人もいない。
 立派でもないし、とても悪いやつでもない。
 ただ、「いて、よかった」って思える人ばかりなんです。
 その無表情、その無口は、並たいていじゃないです。
 でも、お話は進行し、彼らの人生は続いていく。
 十分に、物を語っているんだよなぁ。
 「沈黙」の大きさを、いつも感じさせてくれるんです。
 
 こんどの新作も、あいかわらず無表情で無口で、
 だけどスリル満点で、さっぱりした人情が泣かせました。
 誰も、正義も、人の道も語らないけれど、
 どういうんだろう、それぞれを尊敬できるんだよなぁ。
 吉本隆明さんが、よく語っていた、
 「子どものころに大好きだった近所の悪友」のこととか、
 国も時代もちがうのですが、思い出しました。
 ねぇ‥‥尊敬って、なんでしょうね。
 
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
過激なまでの穏健派ってやつを、目指そうかと思うんです。”

— (今日のダーリン、糸井重里、2012.5.7)

手塚治虫『人間関係が希薄な人は漫画は描けない。漫画とは読者との会話だからだ』

宮崎駿『ロクに人生経験も無いオタクを雇うつもりはない。火を表現するには火に触れないと駄目だ』

庵野秀明『アニメ・漫画に依存するのは止めて外に出て欲しい。あれはただの絵だ』

富野由悠季『オタクは日常会話が出来ない。アニメ作るならアニメ見るな』


藤子・F・不二雄『よく「漫画家になりたいなら漫画以外の遊びや恋愛に興じろ」だとか
「人並の人生経験に乏しい人は物書きには向いていない」だとか言われますが、
私の持っている漫画観は全く逆です。
人はゼロからストーリーを作ろうとする時に「思い出の冷蔵庫」を開けてしまう。
自分が人生で経験して、「冷蔵保存」しているものを漫画として消化しようとするのです。
それを由(よし)とする人もいますが、私はそれを創造行為の終着駅だと考えています。
家の冷蔵庫を開けてご覧なさい。ロブスターがありますか?多種多様なハーブ類がありますか?
近所のスーパーで買ってきた肉、野菜、チーズ、牛乳・・・
どの家の冷蔵庫も然して変わりません。
多くの『人並に人生を送った漫画家達』は
「でも、折角あるんだし勿体無い・・・」とそれらの食材で賄おうします。
思い出を引っ張り出して出来上がった料理は大抵がありふれた学校生活を舞台にした料理です。
しかし、退屈で鬱積した人生を送ってきた漫画家は違う。
人生経験自体が希薄で記憶を掘り出してもネタが無い。思い出の冷蔵庫に何も入ってない。
必然的に他所から食材を仕入れてくる羽目になる。
漫画制作でいうなら「資料収集/取材」ですね。
全てはそこから始まる。
その気になればロブスターどころじゃなく、世界各国を回って食材を仕入れる事も出来る。
つまり、漫画を体験ではなく緻密な取材に基づいて描こうとする。
ここから可能性は無限に広がるのです。私はそういう人が描いた漫画を支持したい。
卒なくこなす「人間優等生」よりも、殻に閉じこもってる落ちこぼれの漫画を読みたい。』

— びっぱーなおれ

 ・ぼく自身が、なにかの都合で職業を記すときには、
 「会社員」だとか「会社役員」だとかを選んでいます。
 おれの職業なんだっけと、
 考えるのがめんどくさいからです。
 社会という森で、会社員という毛皮は「保護色」です。
 
 しかし、それにしても、
 誰も彼も、なにもかも、みんな会社員になってしまった。
 長い間フリーランサーで仕事をしていたぼくも、
 チームプレイをやろうとして会社にしてしまいました。
 そういうぼくが言うのも、口幅ったいのですが、
 生きる術が会社員以外ないかのような社会は、
 やっぱり、ずいぶんおかしいと思うんです。
 「職業につく」ということと、
 「企業に就職する」こととはイコールじゃないはずです。
 
 「会社員」だから収入が安定しているとか、
 「会社員」だから信用されるとか、
 「会社員」だから、生活設計ができるとか、
 いろいろよさそうなことを言われてきましたけれど、
 そうともかぎらないということも、わかってきました。
 
 日本中、「会社員」ばかりというのが、
 そもそも、ずいぶん不思議なことだという気がします。
 「会社員」じゃない生き方をすると、
 「会社員」に比べて、どんだけ不利なのでしょうね。
 なんか、これはいまのぼくの直感なんですが、
 「会社員」じゃない人たちが生みだすものが、
 これからの豊かさをつくっていくんじゃないかな。
 職人、主婦、無職、商店主、手伝い、老人‥‥
 こういう人たちにできること、
 こういう人たちが必要とされることって、
 ほんとは、もっとたくさんあると思うんですよね
 (選挙権だって、会社に関係なくありますもんね)。
 
 仕事のしかたを、もっと考えられないものかなぁ。
 ぼくには、まだこれ以上はわからないのですが、
 変わっていくとしたら、東北の被災地あたりから、と、
 そういう気がしてならないんです。
 いや、そうしたいものだよなぁ、がんばろっと。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
2012年の3月11日、あなたはどこでどうしているでしょう?

— 今日のダーリン、24.2.11

昨日、ほんとに「ふと‥‥」思いついて、
 <じぶんで選べないことは、その人のせいじゃないです>
 と書き記しました。
 これは、吉本隆明さんがなにかのときに、
 呼吸でもするように言ったことばです。
 生まれた時代や生まれた国、どちらもじぶんで選べない。
 肌の色、からだの大きさやかたち、
 そして兄弟やら両親も選べません。

 親しい人どうしが、たがいに、
 からかいあったりすることはあるかもしれませんが、
 じぶんでどうしようもないことで、
 責められたり不利益を受けたりするのは、
 あってはいけないことだと思います。
 
・もうちょっとだけ広げると、
 いかにも「じぶんで選べる」ように見えて、
 じつは「じぶんで選べない」こともたくさんあります。
 ものしりであることとか、教養があること、
 たくさん本を読んでいることなどを、自慢する人や、
 ものを知らない人を簡単にバカにしようとする人が、
 なんとなく気持ちわるいのは、
 教養を得るための時間や環境があったことを、
 勘定に入れてないからだと思います。
 ほんとに教養のあるかっこいい人は、
 ものを知らない人をバカにしたりしません。
 いや、あらゆる人から学ぼうとします。
 
・ま、こういうふうなことを言うと、
 どこかに「じぶんはどうなんだ」ということになって、
 さんざんボロが出るのは目に見えているのですが、
 ものを知らないとか、ものを言わないとか、
 そういう人が否定されるような考え方は、
 ほんとうのよさを持てないんだよなぁ、と、
 このごろ、つくづく思うのです。
 中世に生きていた親鸞さんが、
 「南無阿弥陀仏と言うだけで、誰でも」と言ったのは、
 修業を積んだとか、熱心に勉強したとかじゃない人を、
 まるごとみんな肯定したという意味で、
 かっこいいなぁと思えるんですよねー。

— 糸井重里、今日のダーリン、23.1.19

“しばらくお休みしてしまいましたが、いっぱい泣いていっぱいシャンソンを聴いていたら笑顔になりました

大好きな大好きな栄子おばあちゃんに、一人っ子なわたしはたくさん絵を描いてはほめてもらい、シャンソンにつれていってもらったり。育ててもらいました。
集中治療室で百万本のバラを熱唱しちゃうくらい強かった栄子!!
突然だったけど穏やかな笑顔で栄子と話せた時間は宝物です。しますえさんが会いに来てくれたら頬を薔薇色に染めて、がんばりました。
痛みもなく眠るように最後まで笑顔のまま、だったのは真面目に教会に通いまっすぐ生きていたことを見ていた神様が導いてくれたのかもしれません。
真面目で純粋な少女のような心をもち、曲がったことが嫌いでいつも笑顔で歌っていた輝いた女性でした。
部屋中だいすきなしますえよしおさんの写真だらけでした、三十年以上追っかけてきたまっすぐな愛すごかりし小さい頃何度もシャンソンバー蟻ん子につれてきてもらっていたから身体中にしますえさんのうたが染み込んでいて、亡くなった夜ずっとそばでしますえよしおさんのアルバムをきいていたら涙がとまらなかった。子供の頃も好きだったけど大人になってやっと歌詞の意味が染みてきて…深い悲しみや深い愛、心の深い部分の喜びや愛の世界、素晴らしい。
最後に意思をもって話した言葉は、愛の讃歌!でした。栄子らしい!!

今日桂子と蟻ん子にシャンソンをききにいったら、
すみれの花咲く頃やさくらんぼの実る頃、百万本のバラ、愛の讃歌、栄子のすきだった曲をオンパレード号泣でいろんなことを思い出しました…
光とお花につつまれ、大好きだった教会で、しますえさんも会いに来て髪をなでてくださいました、究極に幸せだとおもいます、

勝夫おじいちゃんのときの恋活遊園地もそうだけど、今回中野サンプラザでライブができたことは、自分の意思や気持ちを大きく越えたなにかのミラクルです、あのタイミングで最高の場所で、ひとりじゃできなかったミラクル
きっと空から誰かが力をくれたんじゃないかな?
歌えば笑えばきっと見ててくれるんだって思います
あのときまでは元気に歩いてこれたし、地元中野サンプラザでライブ、ということを誰よりもよろこんでくれていたから、本当にみてもらえて、やれてよかった。これ以上ないミラクルでした。これまでに出会ったすべての方々に感謝したいですし、いつか本当にシャンソン、愛の讃歌を歌えるくらい深い濃い人生を歩みたい

前向きにいつも以上に強く笑顔で生きたいと思います!!

ありがとうございます歌を歌うことをさせてくれてありがとうございますすべての愛する皆様”

— しょこたんブログ、2012.1.7

 「なんでもない日、おめでとう!」は、
 もともとディズニーアニメの
 『不思議の国のアリス』のなかのことばです。
 小さいころから、ぼくの頭のなかにずっとあったんです。
 もともと、おとなっぽい逆説として
 歌われていたものなんだと思うのですが、
 ぼくは、なんだか、素直にそのまま気に入っていました。
  
 なんでもない日のほうが、なんでもある日よりも、
 何倍も何十倍も多いと思うわけです。
 んで、その多いほうが「うれしい」なら、
 ほとんど一生「うれしい」ではありませんか。
 「大うれしい」が、たまにあるよりも、
 毎日のように「ふつううれしい」やら
 「小うれしい」があるほうが、ごきげんでいられる。
 ‥‥なんてことを考えていたわけでもないのですが、
 ぼくはどうも「なんでもない」が好きみたいです。
 
 あの震災があってから、
 「なんでもない日」をやってくのって、
 ちっとも容易いことじゃないと知って(いまさらかい?)
 その気持ちはますます強くなりました。
 そして、よくかんがえたら「日」ばかりでなく、
 たいていの「なんでもない」が好きなのではないか。
 そういう気がしてきています。
 「なんでもない人」「なんでもない献立」
 「なんでもない土地」「なんでもない動物」
 どれも、みんなとてもいいなぁ。
 
 いろんなものごとを円グラフで表わしたら、
 ほとんどは「なんでもない」なんだよなぁ。
 「おれは信長だ」とか「おれ家康」とか、
 「ぼくはジョブズ」なんて「なんでもある人」のことを、
 さんざん語ったりしてても、実際に動いたり戦ったり、
 買ったり使ったりするのは「なんでもない人」たち。
 
 「なんでもない」のなかには「なんでもある」の成分が、
 ちゃんと組み込まれているんだと、ぼくは思う。
 「なんでもないラーメン」のなかには、
 「すっごくうまい」が、ちゃんと込められていたりする。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
なんでもない赤ん坊が、育っておとなになって老いて死ぬ

— 今日のダーリン、2012.1.11